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年別アーカイブ2020

Fielder【vol.55】反権力 生活の 勧め(後半)

Fielderで書いた記事がネットでも見られます。

長崎県川棚町川原 ー元祖・ふるさとを守るたたかいー

長崎県川棚町川原地区。町の中心から十分ほどの谷間に一三戸約五〇人が暮らす。ここに石木ダムの建設計画が浮上したのは半世紀以上前。建設を進める長崎県は強制収用によって昨年九月、地区内の土地をすべて取り上げた。それでも建設工事を止めるため、地区の「おじさんおばさん」は毎日座り込みを続ける。一週間いっしょに座って、ダム反対の川原ライフに入門した。
文・写真 宗像 充


 

盛り土の上でイスに腰掛ける?

「ここはおれのふるさとたい」

地区総代の炭谷猛さんが建設現場を案内してくれた。朝早く墓地に続く道を登り、砂利道を下った先の赤茶けた土の上に、二〇人ほどの男女がイスを出して座っていた。炭谷さんとぼくは、そこと工事現場を分ける柵を越え、高台から現場を見下ろした。

「炭谷さん、困りますよ。工事現場内を勝手に歩かないでください」

大丈夫なのかなと思っていたところに、長崎県の職員の一人が寄ってきた。炭谷さんが言い返したのが冒頭の言葉だ。口論になって脇で見ていたぼくも「あなたは誰だ」と名前を聞かれた。「答える必要あるんですか」と問うと、「不満があるなら裁判すればいい」と言い放った。

前日の一〇月二六日が、長崎県が示した物品撤去の期限だった。イスを入れる物置や旗竿、テーブルとベンチの写真を載せた看板がある。県側は「道路区域内の不法占有物」として撤去の要請をしている。そのテーブルでぼくは地区の女性たちが出すコーヒーをすすった。

ここは県道の付け替え道路(三・一キロ)の建設予定地の一画だ。一六日に抜き打ちで土砂が運び込まれ、だから赤土の上に座っている。それまで平日の午前中だけだった座り込みを午後と土曜も実施するようになった。この日、座り込みは九四二日を数えていた。

炭谷猛さんは地区の総代で、川棚町の町議会議員。選挙ではトップ当選だったが、町議会では唯一のダム反対派。

「小さなダムの大きな闘い」

背後の鋭鋒、虚空蔵山から流れ出た二つの支流が身を寄せ合うように合流する場所に、川原地区はのびやかに棚田を広げ、家々が点在している。夏にはホタルの群舞が見られるという。その集落を回り込むように、付け替え道路が森を切り開きながら鎌首をもたげた蛇のように這い上がっている。

川原にダム計画が浮上したのは一九六二年。長崎県と佐世保市が二級河川川棚川の支流、石木川に計画した。堰堤高は五五・四メートル、総貯水量五四八万トン(東京ドーム四・四個分)。総事業費は五三八億円の多目的ダムだ。虚空蔵山の頂上から見下ろすと、きんちゃく袋のような地勢の川原は、格好のダム予定地に見える。

「最初はハウステンボスに水を使うと言ってたとよ。それが今は佐世保市の渇水に備えてとなっている」

現地で座る女性たちのまとめ役の岩下すみ子さんは佐世保市出身だ。石木ダムは当初、針尾工業団地の水がめとして計画された。ところがこの計画はとん挫し、予定地は現在テーマパークのハウステンボスになっている。

「県はそこで計画を見直さなかったし、次は治水と目的を変えていく」

岩下さんが憤る。建設側が理由とする一九九四年の渇水も「全国的な渇水で佐世保市だけじゃなかった。納得できない」。実際、ダムのできる石木川は川棚川全体の一割の流域面積しかなく、ダムを作っても洪水は防げない。

当時の建設省がダム計画を認可すると、住民たちは「石木ダム絶対反対同盟」を作り立ち上がった。同盟の幹部が切り崩されると同じ名前の同盟を再結成し、一九八二年には機動隊一四〇名を投入しての強制測量を実力阻止。「小さなダムの大きな闘い」と呼ばれた。集落内には、櫓や反対看板があちこちにあって、人々はその中で暮らし、世代を重ねている。

一〇年前に付け替え道路の建設が始まると、重機の下に座り込むなど建設阻止の衝突が再び起き、その末に今の座り込み場所がある。土地は取り上げられても「一三軒住んでいてダムができるとは思わない」と岩下さんがきっぱり言う。女性たちは柵を乗り越え「みんなの土地」を見て回る。

佐世保市の水道局には「石木ダム建設は市民の願い」の垂れ幕が。川原からは車で40分ほどかかり導水時には途中の峠はポンプアップする。

昨日も今日も明日も座る

週に何回くらい来るのかと聞くと、「毎日よ」という答えで驚いた。これは一週間やってみるしかない。

休み時間には茶菓子とコーヒーが出て「いつもよりサービスがいい」と軽口をたたく。

それが二日座っただけで消耗する。埃っぽいし日差しも強い。朝、目の前の柵の向こうに出勤する県職員が去れば、監視カメラで見張られる。これを雨の日も風の日も一年中続けている。

「今日私たち温泉に行くんだけど行くかな」と岩下さんに火曜日に言われて飛びついた。「若い男を連れてきた」と受付でわざわざ言うお隣の岩本菊枝さんの言葉を、「もう若くないです」と否定する。町内の入浴施設に隣近所三人組の女性たちで週二回通う。そうでもしないと体がもたないのがわかる。

一〇年前に付け替え道路の建設が始まるときに、最初に抗議行動を組んだのは、一三軒の家の女性たちだった。顔が識別されないようにマスクをし、お揃いの法被を着、人数を水増しするために案山子をつくって出陣した。ゲートの前に後ろ向きで並んで歌を歌った。今も座り込みの主力で半日交代でやってくる。そのときの「川原の歌」を現場で合唱してくれた。春風がそよぐような歌詞とメロディーがやさしい。

「男は生まれてからずっといる。女はよそから来る。それが男よりがんばってるんだから」と男性陣の石丸勇さんは感嘆する。

「女は女で苦労をともにしてきた。長男の嫁でばあちゃんもいて、みんな同じ立場だった。出ていく人もいる中で、隣近所、仲間は大事。反対して助け合いながらなんでも正直に本音でつき合える。この重さはお金では代えられない」

岩下さんは付け替え道路の工事が始まるまで、一〇戸を移転させた水面下の切り崩しを振り返る。

「この人賛成やろか、反対やろかと人が信じられない。だからって付き合わないわけにはいかない。一三軒になって結束は強くなったけど、その間はきつかった。私たちの年代で中止にせんと、子どもたちに申し訳ない」

座り込み現場で「川原の歌」を歌う地区の女性たち。「日本うたごえ祭典」でも合唱した。歌詞は「自然を守る人が住む」と結ばれる。

「土地を取られても何も変わらない」

「住民たちは追い詰められている」

虚空蔵山に登った帰り、川原の上流、全戸移転した無人の岩屋地区でぼくが撮影していると、川を眺めていた年配の男性が話しかけてきた。「懐かしいからきた」という。

「ダムができないと何のために出ていったかわからないからでは」

川原に戻ると地区に暮らすイラストレーターの石丸穂澄さんに道で出会った。「怖い人たち」と見られがちな住民たちの横顔をイラストで発信している。自宅の田んぼはずさんなダム関連の道路工事で水路が切られ、来年から営農できるか未定だ。

「脅しや嫌がらせは昔から受けていて慣れている。無理して作れば予算は何千億円もかかって困るのは県民。追い詰められているのは県のほう。土地を取られても何も変わっていない」

妹が川原に嫁いだという男性も隣町から座り込みに来ていた。

「妹は住み続けるという。法的には不法侵入。どうするのとは聞けない」

そう言いながらも週に一度は加勢に来る。新聞を見てはじめて来た男性、この問題はおかしいと志願してきた新聞記者、そして近隣から集まってくる支援者たち。一四〇メートルの阻止現場の奥行きは、思った以上に広かった。

未来を取り戻すために

週末、川原の一画にティピと呼ばれるテントが出現した。満月の日に合わせ「田んぼフェス」が開かれ、コンサートや神事、法話、餅つきまで盛りだくさんだった。

主催した越智純さんは、次は本体工事という時期に「里山の暮らしはこうだった。原点回帰としてキャンプしてここでみんなで感じてダム計画を考えてみよう」と外部から祭りを持ち掛けた。セイタカアワダチソウが茂っていたかつての田んぼは「無断使用」。でもそれは地区内どこも同じ。

「農機で起こした人が『土が喜びよるごたる』と言っていた。来年は稲を植えられれば。ここはダムのおかげで砂防堰堤もない。まるで地区全体がビオトープでタイムカプセル。今の時代に向いたアウトドアやエコロジーライフの実験場にできないでしょうか」

集落に一歩入ると感じるなつかしさの正体はそれだった。もともと町にも近く、災害もなく住みやすい。新築した家も多い。だけどここは行政サービスの埒外だ。公民館も古くて、農地の区画整理も河川の護岸整備もない。

「時間が取れなくて畑の草は伸び放題」と石丸さんが週末にやってきたお孫さんと芋ほりをしている。岩本さんが「ここは県が買収したとこ」と畑で大根を抜いていた。座り込み現場で見る人も、平日は勤めの現役世代も、農作業に汗を流し、物珍しそうにお祭り会場に現れた。河原では子どもたちが遊んでいる。華やいだ週末だった。

「よく考えたらふるさとに守られてきたんだなあ」

ステージでスピーチした炭谷さんが口にした。川があれば子どもが遊ぶ、畑があれば野菜を育てる、イノシシがいれば罠を仕掛ける、月をめで広場があればお祭りをする……それはずっと昔からの人間本来の姿に見えた。ふるさとを守る闘いは、そんな未来をぼくたちの手に取り戻すことだろう。

蜂の巣城

12月25日、大分・熊本県境の筑後川上流、下筌ダムを見に行った。

久住高原を経由し、大分県犬飼町の実家から1時間半ほどで着く。だけど、この地域は、同じ県内でも最も縁遠い場所。子どものころ、通ったことはあったと思うのだけど、ちっとも記憶にない。

ここは、日本最大のダム反対闘争が行われたことで知られているので、「反権力生活」の参考に見に行った。当時この反対闘争は、別名「室原知幸の乱」とも呼ばれた。山林地主の室原知幸は、ダム堰堤建設予定地に、砦「蜂の巣城」を築き、行政代執行に備えた。

地元大分県の作家、松下竜一のノンフィクション『砦に拠る』で当時の様子を知ることができる。

おもしろいのは、三里塚や石木ダム建設現地など、今も反権力闘争が継続している地域で、先行するこの蜂の巣城の闘いを勉強しているということだ。

三里塚の難波さんは「テキストで読んだぞ」と言っていたし、石木ダム反対の川原の方は「みんなで室原さんの墓に参りに行ったりした」という。

「砦に拠る」を読むと、室原自身が、さらに先行する闘争の足尾銅山鉱毒事件(荒畑寒村の『谷中村滅亡期』)や、砂川闘争を勉強していることがよくわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなわけで、川原では、室原王国旗を今も受け継いでいる。日の丸を反転させた旗は、人民が権力を取り囲んでいるのだという。

今発売中のFielder55号でレポートしているから読んでね。

いっしょに行った父は、大学生かその後でその時の様子を新聞か何かで見た記憶があるという。労組でも支援があったのだという。

「あの闘いで、国は行政代執行をなかなかしなくなった。それまでは簡単に代執行をしていた」

という程度の知識を父も頭の中に入れていた。冒頭の写真は、その下筌ダムの国土交通省の事務所の1Fロビーに展示してある。反乱軍と交戦した国の機関が、その乱を歴史に残しているところが象徴的だ。

砦に向けて橋頭保を築く建設省側。

戦闘を見守るヤジウマ。

湖岸を歩くと、こんな看板があった。観光資源としてこの闘争を復活させるのかもしれない。

国立にいたころ、市議会にこんな本が送られてきたという。

地元日田市に競輪の場外車券売り場の建設が予定されていたとき、「まちづくり権」を掲げて、当時の日田市は国を訴える裁判を起こしている。市長が先頭に立ってデモを行っている。どうもこの本は全国の自治体議会に郵送されたようだ。

この本を読むと、当時の市議会議長が室原知幸の息子で、議場で「理にかない、法にかない、情にかなう国であれ」と、室原知幸が残した反権力闘争の金字塔の言葉をぶっている場面が出てくる。砂川闘争のときの砂川町の収入役が、後に市長となった立川市でもそうだけど、ある程度、反権力闘争が「正史」として地元に受け継がれているのがわかる。

とはいっても、今はそんなことは外からはわからず、山間に静かに水をたたえていた。写真は下流の松原ダムの水面。湖底に沈んだ志屋集落がある。

宗像大島オルレ

話が前後しますが、12月22日に九州オルレ、宗像大島コースを歩いてきた。オルレというのは韓国の済州島発の文化に触れるトレッキングコース。九州にはオルレがあちこちに整備されていて、たまに大分に帰ると歩いていた。今回で4か所目。

今回は、世界遺産ブームに乗って、宗像大島コースにGO!

神湊港から船に乗り、25分で大島へ。

好天を期待したところ、曇っていた。島に着くと雲の切れ間から光が差していた。

オルレのいいところは、10キロちょっとくらいのルートのあちこちに表示やペナントがあって迷わないこと。

大島には、天照大御神の3人の娘のうちの一人が祭られている。宗像大社に一人、そしてさらに沖の沖ノ島に一人。うちの先祖は、沖ノ島の田心姫神、ということになっている。うちにある家系図を見るとそうなっている(ちなみに本物の家系図は質に入れていたら洪水で文字通り「流された」という。ナイスな先祖だ。うちの家系図は隣町の家系図の写し)へー、そう。

ちなみにこの神社は七夕伝説発祥の地で、縁結びの神様なのだそうだ。参っといた。

中津宮からは御嶽へ登っていく。本州と違って、照葉樹林の森がうっそうとしているのが九州らしい。

平日だというのに、ほかにも登山者が来ている。オルレ人気だ。

人気があるのは、迷ったりトラブルになっても、携帯で連絡をとれば救助が期待できる安心感にある。随所にレスキューポイントがあって、番号を言えば位置を救助側に伝えることができる。

海に出ると風車がある。

近くには、旧陸軍の砲台の跡がある。日本海海戦の慰霊碑とかもあり、日本と大陸との交易拠点というだけでなく、戦略的な拠点だったことがわかる。

途中、牧場もあって大きな馬がたくさんいた。

ひたすら歩くと沖ノ島の遥拝所につく。この日は曇っていて、沖ノ島は見えなかった。

9時過ぎに出発して13時の便で九州本土に戻ることができた。

せっかくなので、宗像大社にも立ち寄った。

宝物館の人に、「大分の宗像の出なのですが、この辺りには宗像さんはいるのですか」と聞くと、「一時期途絶えましたが、養子をもらったりしていまもいますよ。宮司の中にもいます」と説明していた。

「ルーツをたどったりするのは、年とってからしたりするもので、若いうちはあんまり興味がなかったりするんですよね」とあるあるの話をしてくれていた。

 

川原座り込み現地・長崎県のフェンス強化

大分に帰省して福岡で人と会ったので、長崎まで足を延ばした。石木ダムの建設の反対運動を取材して、近々発売予定のFielderでルポを書いた。いろいろお世話になったので、陣中見舞いで訪問した。

地元の人たちは以前と変わりなく、椅子に座っていた。

2時45分、長崎県の職員2人が業者の人2人を引き連れて車に乗って現れた。ぼくが気づいて、テーブルで休憩していた女性陣に声をかけ、みんなでフェンスまで寄っていく。

網状のフェンスの下にポールを渡して強化していた。下からくぐって現場に入りにくくするための措置だった。

みんなでやってきて作業を見守る。

10分ほど作業をして、引き上げていった。

「細かいことやるよね」とみんなで言い合って、座り込みに戻った。ぼくも大分に帰るために引き上げた。

ちょうどのタイミングでの作業だったことになる。