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月別アーカイブ10月 2020

室原王国旗

昨日、大鹿村のブナの伐採反対をしているグループの方から連絡が入り、「私たちは取材拒否はしない」と言ってました。ぼくは「あったことを書いただけです」と伝えました。

長崎県川棚町川原地区に来ている。

朝日が田んぼを照らす美しい谷です。ここには、石木ダムというダム計画を長崎県が進め、水没予定地の13戸を中心に反対運動が半世紀以上続いている。何しろ計画が持ち上がったのは1962年のことだ。

「リニアの反対をしているので勉強させてもらいに来ました」と、刷り上がったばかりのFielderを手土産に、あと、大鹿塩最中も手土産に現地の人たちに伝える。

というのも、長崎県はとんでもないことに、まだ13戸も生活しているというのに、収用裁決をしてしまっている。住民たちは、取り付け道路の建設反対のために、座り込んだりしてたいへんな思いをして、今も取り付け道路の途中で支援者といっしょに座り込みが続いている。

部落の入り口のダム小屋にはこんな掲示が書かれている。

何十年も前に作られたというやぐら。

信じられないことに長崎県は、座り込みの人を通行妨害で訴えたり、座り込みで使う物品に対して裁判をかけたりしていて、現地にはこんな看板がある。

物品を強制収容するなんて、自分たちがやっていることに正当性がないと証明しているようなものだ。

道路の建設予定地の一角が座り込みの場所。午前中は支援者も含めて20人くらいがいて、午後はご婦人方が中心に10人くらいがいた。表情は明るいが、「座り込みは時間がとられるし消耗する。どこにも行けんとよ」「裁判所はあてになるところなんてあるの」と、するどい言葉が続く。

今回現地を案内してくれた、炭谷猛さんは町議会議員。ダム反対を掲げてトップ当選(しかし反対派は議会内では炭谷さんだけ)。

若いころに松下竜一の「砦に拠る」を読んで感動したという。熊本県の松原・下筌ダム反対を戦った室原知幸は「公共事業は、理にかない、法にかない、情にかなわなければならない」という反権力闘争の金字塔ともいえる言葉を残している。

「でも最近もう一回読んでみたけど、そのころのような感動じゃない。室原さん一人でたたかったのと、13戸でみんなでたたかっているのと、違いがある」

と述べていた。でも、幟旗には室原王国旗が受け継がれている。

それは日の丸を逆さ透かしにしたもの。反権力の象徴だ。

Fielder Vol.54 反権力生活の勧め

出かけていて戻ってきたらポストに雑誌が届いていた。この夏取材していた三里塚の「反権力生活」が記事になっている。買ってね。

この雑誌は焚火の特集が多いけど、編集長はまだ若くて、「反権力」というのを意識しているというのを、最初に売り込みに行ったときに言っていた。

以前は、政治的な立場を明確にしている雑誌以外は、政治的な色を出さないというのが、なんにせよ雑誌としては常道で、趣味の雑誌とかだとなおさらだった。

ふわっとしたのが受けるというのは、生協が政党を作ったりすると左派なのは明らかなのに「生活者ネット」とか名乗ったというのによく示されている。けど、最近では、政治的主張ははっきり言う、というほうが、どうも売れ筋らしい。これだけ経済的な格差が拡大し、都市と農村でいがみあったり、年寄と若者でパイを奪い合ったりしているわけだから、そりゃ当たり前だよ、と思う。

とはいえ、編集長が「反権力ライフ、というのはどうでしょう」と言ってきたときには、おもしろいとは思ったけど、ほんとに受けるのかなというのは思った。

ライターにとって読者は神様だし、受けてなんぼなので、反響がなければどんなにいいもの書いたと自分では思っていても、寂しいものはある。この雑誌には、林野庁の枯葉剤埋設問題や、リニアの問題も載せてもらったのだけど、それなりに反響もあったようだ。

今回は三里塚の紹介で6ページを割いた。

雑誌には載せきれなかった、成田市内での全国集会の様子。

カメラを向けるといっせいに向こうを向く公安警察。

ナイスなプラカード。NAAというのは空港会社。

デモを見張る機動隊。過激派も最近はたいしたことしてないので、「どっちかというと穏健派ですよね」というと、まあ、そう言うなという感じの反応だった。

大鹿村のことも2ページコラムで書いた。ちなみに、大鹿村内ではブナの伐採反対の運動に取り組んでいるグループもあって、ぼくも取材を申し込んだのだけど、取材拒否にあった。

「読者に共感を持ってもらえる書き方だといいんだけど」

と文章指導までされた。一応プロなのでムッとしたけど、それだけ村の中でよそ者として嫌われているんだろうなあと思った。ばかばかしいが、新聞記者や村外のジャーナリストは呼びたがる。そして、そのときはぼくには声をかけないし、議員の視察は来てもらっては困ると言われたこともある。なるほど、市民運動にも権力と反権力があるようだ。なんにせよ、ふわっとしててもなんでも止めてくれれば文句は言いません。

雑誌には、「絶滅」野生動物生息期、というきわどい連載も持っていて、今回は、高知で発見されたカワウソ情報の詳報を紹介。

赤外線カメラに写っていたカワウソの写真。今回はカワウソ最終回、「二ホンカワウソは生きていた」。一読の価値あり、と思う。

世代を超えて南アルプス山麓へ

リニア問題とは別の、子どもと引き離された親のグループで昨日発送作業をして、引き離され仲間の小畑ちさほさんとその夫の徹宗さんがうちに泊まっていった。

この家からは南アルプスの大沢岳が見える。家を「良山泊」と名付けてみた。

別居親としてちさほさんと会ったのはもう10年以上前のことだけど、その後ぼくが大鹿村にやってきて、リニア反対をしているというと、彼女も興味を持った。

というのも、ちさほさんは山登りはしないのだけど、ちさほさんのお父さんは登山家で、60年代~70年代に建設が進んだ南アルプススーパー林道の建設反対運動や、ヴィーナスラインの反対運動を担ったそうで、「北沢峠」(スーパー林道建設の焦点になった峠)という著書(詩集)もある。

子どもと引き離されて二度と会えなくなるかもしれないという経験や感情を他人に説明するのは難しい。だけど、自分の生きがいとして続けてきた仕事やらが、理不尽な理由で奪われたりした経験のある人は、親としての役割が奪われる感情を想像することもできるようだ。

そうはいっても、10年以上も別居親として子どものことにこだわり続けるのは、それなりに苦しい思いや屈辱的な思いをたびたびする。なのにどうしてがんばれるのかというと、その人自身と親とのかかわりにそれなりに他人に語るべきものがあったりする場合が少なくない。

ちさほさんの話を聞いていると、父親のやってきたことに、たいそう関心があるというのがわかる。いろいろとお父さんの著書を見せてくれたのだけど、他人事ながら父親への愛情を感じる。

同じ部落のアルプカーゼのKさんも、南アルプススーパー林道の反対に取り組んでいたというのを知っていて、ちさほさんから見ると父親の同志ということなので、小畑さんたちが帰る間際にアルプカーゼを訪問してみることにした。

ちさほさんと徹宗さんの小畑さん夫婦

運よくKさんがいて、ちさほさんの父親のことはよく知っていた。「大鹿にも来たよ。本も持っているよ」と短時間ながら思い出話をしていた。

「北沢峠の一輪の花を守ろうというのが自然保護運動だった。そういう感性を持つ人間が多くはないけど何人かいたんだなあ。静岡や山梨の人といっしょに協力して運動をつくっていった」とKさんが説明していた。

「また時間があるときに来るといいよ」と言って、退去した。帰り際にとった写真のちさほさんの表情がやさしくなっているので、父親のことを直接知る人から父親の話を聞けてうれしかったのだろうと思う。

小畑さんたちとは、これから諏訪や別の場所で登山者たちとかを対象に、南アルプスの現場のスライドショーとかができないかと相談した。静岡県のがんばりのおかげでリニアへの関心が高まっている。どうやってJRに引導を渡すか、権限のある長野県内でどう世論をつくっていけるか、これからの舞台は大鹿村内にとどまらない。

 

 

 

 

反権力生活の勧め・三里塚編

アウトドア誌のFielderで、「反権力生活の勧め」という特集記事を作ることになり、9月21日~27日の日程で三里塚に行ってきた。その校了日が19日だったので、ようやく一息つくことができた。6ページを三里塚のことを、2ページを大鹿のことを書いた。三里塚には友達がいるので、かつての団結小屋に一週間居候して、あちこち取材した。とはいっても、アウトドア誌なので、空港予定地にある農家の有機農業への取り組みなどを取材させてもらった。

縁あって大鹿村に来て住み続けると、自然と「反権力生活」になるのは、多分自分がそういう性格なのだろうと思う。

世の中には同じような性格の人が少なくないようで、不正義や弱いものいじめに黙ってられない人が、反権力闘争の支援者になったりする。大方、どんな人からも学ぶ姿勢のある人や、心が優しい人が多い(そうじゃない人もいる)。取材で行ったのだけれど、半世紀にわたる闘いの歴史は大鹿でのリニア反対の取り組みにも参考になったので、記事には書けなかったものを書いてみたい。

案内役は革命家の友達のナンバさん。国立以来の友達で、今は三里塚の団結小屋に住む。20代のころにも三里塚にいたという。ここは、空港予定地内にある共同墓地。

闘争遺産その1「大木ヨネの墓」

共同墓地には、強制代執行時に家と敷地を強制収容された大木ヨネさんの墓。1971年、ヨネさんは庭で農作業中に、だまし討ち的に排除され、代替の家に入らず、補償金も受け取らず、反対同盟が用意したプレハブにその後住むことになり、数年して亡くなった。ここは共同墓地なので収容できない。ナンバさんは「大木ヨネは死んでも空港に反対している」と解説。

闘争遺産その2「東峰神社」

ここは敷地内に数戸が残る東峰地区の東峰神社。ここも部落の共有のため収容できず、空港内にある。

長いフェンスの先にあるのだけれど、両側は空港。今は着陸する航空機の撮影スポットとなっている。

こんな感じで頭上を飛んでくる。迫力ある。

ナンバさんが「これは防火用水」というので、野火の火事が多いんですかと聞くと、「過激派への放水用だよ」とシュールな解説。

闘争遺産その3「労農合宿所」

ここは反対派の拠点の一つ、労農合宿所。どうやって行くかというと、滑走路の下の長い長いトンネルを潜り抜けていく。

周りは空港の高い高いフェンスがある。

どのくらい長いトンネルかというと、行くまでの標示が示している。ナンバさんは「トンネル掘ったほうが安上がりなんだろうな」と言っていた。

この間の裁判による土地取り上げで、強制収容の対象とされた看板。空港内からは目立つだろう。

闘争遺産その4「三警官の墓」

1971年の第二次行政代執行時には、東峰十字路で機動隊3名が亡くなっている。亡くなった場所にそれぞれ3つの墓がある。「機動隊は今もなにかやるときは墓に参るらしいよ」(ナンバさん)

闘争遺産その5「岩山大鉄塔」

現在「闘争記念館」と呼ばれている反対派の拠点で、ちょうど滑走路の南端に位置していて、かつては先端に60.6mの高い鉄塔が立って離着陸を阻止していた。1977年に強制的に撤去された。近くに道がついている。「重機を入れるために撤去するためだけに作られた道」(ナンバさん)だという。

空港が望める。

鉄塔は下部の骨組みだけが残る。ちなみに近くには、団結小屋があって住人もいます。

そんな感じで、あちこちナンバさんに連れていってもらった。思ったのは、やってる人がいる限りは、闘争は続くという当たり前のこと。その続ける、というのをどうやっていくのかが難しい。だからといって負けているかといえば、そうでもない。

空港に行ってみると人まばらでガラガラ。倒産寸前の空港会社。リニアと同じで廃港も見えてきた。

続きは雑誌を買って読んでくださいね。